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2008.04.16
光市母子殺害報道「多くが極めて感情的」 BPO意見書
4月15日21時28分配信 産経新聞

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080415-00000971-san-soci

「多くが極めて感情的に制作されていた。広範な視聴者の知る権利に応えなかった」

知る権利が何かあいまいでこれの解釈を述べずに、自分の考える解釈が正しいとすることは主観的で押し付けがましく、これは議論のための反論を拒否する目的なのか、一応は民主主義国家であるわが国におけるマスコミの倫理を考える団体として矛盾がある。

知る権利はわれわれマスコミの受け手にあるものであるとするならば、なぜに感情的でなぜに知る権利を侵害したのかまで表現しない限り、われわれはこの団体の批判を知ったことにはならない。

個別の番組の名を挙げた指摘はしなかったが、「被告弁護団対被害者遺族という対立構図を描き、前者の異様さに反発し、後者に共感する内容だった」とし、「公平性の原則を十分に満たさない番組は、視聴者の認識、思考や行動にストレートに影響する」と指摘した。

論外だ。
マスコミは横一列に並んで報道するわけではない。
それぞれの発信側に方向性があること(たとえば朝日なら左、産経なら右)と公平性(朝日でも右的報道の必要性、またその逆)が対立する。
完全な公平性を確保することが知る権利の侵害を避けることであれば、朝日は朝日でなく産経は産経でなくスポーツ新聞はスポーツ新聞ではなく、これは公平、平等という美名に偽った平面化であり無価値に程近くなる。
無価値な報道を知る必要性はどこだろうか。知る権利は表現の自由の一部ではなかったか。
個別に存在するマスコミ各社が個別に報道することに価値があるにもかかわらず、個別の報道を具体的に批判せずに、マスコミ各社の存在があるから存在する内容にのみ言及することは「感情的」であることに近く、現実味という客観性を欠いてはいないだろうか。

対立構造を批判することは批判するに値する。
この事件の被害者は報道に流され被告や弁護団を批判したのだろうか。
逆である。自ら立ち上がり怒りや悲しみという感情に限らず、もろもろの制度、死刑制度について被害者の保護の必要性についてなどを表現した。これを受けてマスコミやジャーナリスト、はては一般までもこれに言及することとなった。対立する根拠があったから、周辺であるマスコミも対立構造を報道したものである。
この事件に限らず、今まで被害者は表現する場を確保できずにいたためだろうか、本村氏ほどには表現しなかったが、その後表現することを求める被害者があることが明るみになった。これは被害者予備軍であるわれわれ一般にとって価値ある情報であると考える。

確かに虚偽がある報道があることは事実でありこれは非難されるべき事柄であるが、この事件の弁護団が異様であることは客観的事実である。
すべての報道が事実によらず虚偽の内容により、われわれ受けての解釈が、解釈から生まれる批判が虚偽であるといえるのであれば、批判者であるこの団体が詳細にそれを表現しなければならない。
被害者への共感までも非難することはこれこそ表現の自由の否定に他ならない。
なぜなら、共感とは個人の感情レベルに過ぎず、法廷の場に必要であるような確かなものではない。だからこそあってもよい。人間は感情を根拠に言動しつつ、それを自制、コントロールしながら行動する生物である。
自制しコントロールする根拠となるものは、知識である。感情によらず、客観的な知識。マスコミはこれを報道で表現することが必要であるが、他者の感情に訴えるものを非難することは実は上に書いた人間本性によらず主観的で感情的なのである。

「視聴者の認識、思考や行動」と認識と思考と行動を同一のものとする虚偽である。
確かに偏向した報道を偏向していると認識できずにいる限り、それは思考せずに偏向した行動を伴いがちだ。
逆に、偏向しているなどと不快とする認識があれば、他者によるものである報道に疑問を感じるのだから、自分はこれに沿わない行動をとるべく思考し、報道のままの行動はとらないことができるのである。

よって、報道に問題があることは報道の受け手の行動に間接的には作用するものの、直接的であるとは限らず、行動にはその行動した人間に責任がある。
例えば、橋下による懲戒請求の呼びかけが感情的であると仮定する。しかし、これを受けた人間みながみな感情的に行動した、つまり感情的な文面を沿えて懲戒請求を行ったという根拠はどこにも存在しない。認識段階では感情的かもしれないが、その後に自ら思考しその結果感情的どころか論理的な内容の文面を沿えて行動したものもあるだろうが、橋下氏個人の行動が感情的であることが多くの他者までも感情的であるとすることはなんら客観性のない、懲戒請求という事象そのものを批判するものたちの批判を、つまり懲戒請求に対する嫌悪憎悪という主観的な感情的な被害妄想のみを根拠にするものにすぎない。

この虚偽にあふれた批判は、意図せずとも死刑廃止論者など批判者の批判を広めるための偏向した一種のプロパガンダの要素を持つものであると考える。
しかし、当然にわれわれ受けて側が思考し行動する限りこのプロパガンダは成功しない。

追記。
光市母子殺害事件の差戻控訴審に関する放送についての意見
2008(平成20)年4月15日 放送倫理検証委員会決定 第4号
http://www.bpo.gr.jp/kensyo/kettei/k004.pdf

別の放送局の番組では、やはり司会者が「『ドラえもんが何とかしてくれる』って、笑わせるんじゃないよって言いたくなるよな」「女性をね、殺して、ねっ、暴行する。
それは何のために? 『殺した女性を復活させるため』。そんなもん、世の中で通用するわけないでしょ」と、あきれ顔で言っている。
この番組にも、被告の、一見荒唐無稽にしか思えない発言の真意が何であるかについての取材や解説がない。犯罪は被告の内にある何らかの荒唐無稽、異常、異様、破綻、失調等々がなければ起きなかったはずだから、そのよって来たるところを探ることこそがメディアの仕事であろう。しかし、ここにはその取り組みがないまま、片言をとらえただけの表面的な断定しかない。


「荒唐無稽、異常、異様、破綻、失調等々」の荒唐無稽と異様はその様を表現する物で彼らが批判する対象の発言の意味と同じ意味であるが、異常と破綻と失調は被告の発言が現れる根拠を示すものである。これが並ぶことは論理的ではない。
「がなければ起きなかったはずだから」の前にあるべきは、異常と破綻と失調であるが、荒唐無稽と異様というその様をも含めたことは、「がなければ起きなかったはずだから」が弁護側一方の視点によるものであるから含めたものであろうか。そうならば似非中立性である。中立性を考慮したふりでもないのであれば感情的に並べたに過ぎない。
報道にあったか知らないが、異常と破綻と失調にある弁護側が主張するものがある場合は、被告のおぞましい発言が出てくるだろう。
しかしこれがなくても、健康であってもこのおぞましい発言、犯行は行える。
被告は自分の不幸から他者の幸福を妬むことが考えられ、本村家の幸福を破壊した。この罪があるにもかかわらず過失致死で死刑を免れる本能からおぞましい発言を行う。
これを中傷であるとする人はすでに中立性を放棄した人である。

某局のある番組は「光市母子殺害で大弁護団21人集結の『目的』」というテロップのあとで、暗い照明で浮かび上がらせた弁護団一人ひとりの顔写真を映し出し、その後、被害者遺族が「(彼らは)被告人を救おうということよりも、救うことが手段であって、目的は死刑制度廃止ということを社会に訴えること」と語るシーンをつなげ、それを引き取った司会者が「この21人の弁護団のそもそもの目的というのが、はっきり浮かび上がってきたなあ、という感じがいたします」とつづける。
これも「弁護団」対「被害者遺族」という対立構図を描いた番組のひとつである。
たしかに弁護団のなかには死刑制度廃止を訴えてきた弁護士も何人かいるようだが、それ自体は思想信条の自由に属す事柄である。しかも、死刑制度廃止論はこの差戻控訴審の争点にもなっていないし、彼らがその主張を法廷で述べた形跡もない。番組制作者がそれでも死刑制度廃止論者が弁護人になったこと自体が重要テーマだと考えるなら、きちんとした取材に基づいて、それが批判するに値する事柄であるという理由を示す必要がある。それがないままに、被害者遺族の意見を引用・紹介し、そこに同調するだけで終わっている。


確かに番組の演出は限度を超えたものであると思うが、ここからBPOの主張に同意することはできない。
例えば安田弁護士は、彼や他の人間の著作にあるように明らかに死刑廃止論者であるし、彼は死刑判決がありうる裁判に積極的に関わっている。

どこの誰が死刑制度廃止を訴えるのも自由である。
しかし、この思想があるために現行法で認められた死刑制度ある現在において、個別に起きた事件を個別に捜査され個別に起訴された裁判において、必ず同じように特定の主張を行うことは恣意的である。これは思想信条の自由から逸脱している。
死刑制度廃止論はこの差戻控訴審の争点?そのとおり死刑制度廃止の裁判ではない。裁判の争点にならないし、立法でも廃止の方向になることが期待できないために、制度としての死刑制度の廃止が実現されるまでに死刑が現実のものとなることが予想される事件に思想をもって介入し、死刑判決と死刑執行を阻止することが現在ある行動であるから、これはいわゆる廃止論、論じた上で廃止に向かうものとは別のものである。彼らがその主張を法廷で述べた形跡はない。述べることが論者であるが彼はこのために廃止論者ではない。実質的廃止活動家である。
しかし、弁護団全員が廃止を望んでいるとすることには確かに問題がある。

BPOという独立した団体の主張がこのように死刑廃止団体の主張とよく似ていることには驚いた。
いくら市民団体・・・そう市民が参加していれば、一般の市民が持たない思想、行動をとることがあっても、極左も極右もみな市民団体。反国家主義のイデオロギーから死刑を国家による殺人と解釈し、これを主張し、この制度維持を国家に帰属する国民の多くが求めるにもかかわらず、その国民ごと国家を敵に回しているにもかかわらず、自覚しているのかいないのかヒロイズム-メシアニズムに酔うマルクス主義、共産主義が歩んだその道を歩む思想、団体、左翼である・・・が主張したものを取り上げて協議したとはいえ、本来行うべきは、番組の演出に度が過ぎたものである場合や取材不足による明らかな虚偽内容を批判するべきであるが、この主張には死刑廃止論者や存置論者、いやどちらでもない一般が行う個人の解釈が含まれている。これは明らかに存在意義から逸脱したBPOは圧力団体化していると批判する。
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